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ラリー・ヤング (ミュージシャン) : ミニ英和和英辞書
ラリー・ヤング (ミュージシャン)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ラリー・ヤング (ミュージシャン) : ウィキペディア日本語版
ラリー・ヤング (ミュージシャン)[ちょうおん]

ラリー・ヤング''Larry Young'')もしくはハリド・ヤシン(''Khalid Yasin'', 1940年10月7日 ニューアーク1978年3月30日 ニューヨーク)はアメリカ合衆国ジャズキーボード奏者(オルガニストならびにピアニスト)。ソウル・ジャズ寄りのジミー・スミスとは対照的に、モーダル・ジャズの先駆者として知られるが、その実ソウル・ジャズも手懸けた。ジミ・ヘンドリックスとのジャム・セッションによってレコードを残したことから、ジャズ愛好家だけでなく、ロック愛好家にも名前が知られている。イスラム教改宗してハリド・ヤシン・アブドゥル・アジズ(''Khalid Yasin Abdul Aziz'')に改名した。'Larry Young'')もしくはハリド・ヤシン(''Khalid Yasin'', 1940年10月7日 ニューアーク1978年3月30日 ニューヨーク)はアメリカ合衆国ジャズキーボード奏者(オルガニストならびにピアニスト)。ソウル・ジャズ寄りのジミー・スミスとは対照的に、モーダル・ジャズの先駆者として知られるが、その実ソウル・ジャズも手懸けた。ジミ・ヘンドリックスとのジャム・セッションによってレコードを残したことから、ジャズ愛好家だけでなく、ロック愛好家にも名前が知られている。イスラム教改宗してハリド・ヤシン・アブドゥル・アジズ(''Khalid Yasin Abdul Aziz'')に改名した。')もしくはハリド・ヤシン(''Khalid Yasin'', 1940年10月7日 ニューアーク1978年3月30日 ニューヨーク)はアメリカ合衆国ジャズキーボード奏者(オルガニストならびにピアニスト)。ソウル・ジャズ寄りのジミー・スミスとは対照的に、モーダル・ジャズの先駆者として知られるが、その実ソウル・ジャズも手懸けた。ジミ・ヘンドリックスとのジャム・セッションによってレコードを残したことから、ジャズ愛好家だけでなく、ロック愛好家にも名前が知られている。イスラム教改宗してハリド・ヤシン・アブドゥル・アジズ(''Khalid Yasin Abdul Aziz'')に改名した。
== 略歴 ==
1950年代にさまざまなリズム・アンド・ブルースのバンドと共演した後、ジミー・フォレストルー・ドナルドソンケニー・ドーハムハンク・モブレイトミー・タレンタインとの共演でジャズの経験を積んだ。
1960年よりプレスティッジ・レーベルでリーダー・アルバムの録音を開始し、『テスティファイイング(''Testifying'')』や『ヤング・ブルース(''Young Blues'')』、『グルーヴィー・ストリート(''Groove Street'')』など多数のアルバムを作った。1964年ブルーノートに移籍した頃には、ジョン・コルトレーンの顕著な影響が見えるようになった。ヤングの最良の作品が作り出されたのもこの頃である。ギタリストのグラント・グリーンやドラマーのエルヴィン・ジョーンズとしばしばトリオを組んでおり、時にはその編成に多少の増員を行なった。このような手順を踏んだアルバムは、ほとんどがグリーンの名義で発表されたが、(サクソフォンにサム・リヴァースを迎えた)アルバム『イントゥ・サムシン(''Into Somethin)』は、ヤングのブルーノートにおけるデビュー盤となった。1965年に録音されたアルバム『ユニティ(''Unity'')』は、ヤングの代表作であり、ジョー・ヘンダーソンや若き日のウディ・ショウを最前線に押し出している。
その後のブルーノートにおけるアルバム(『コントラスツ(''Contrasts'')』、『ラブ・アンド・ピース(''Of Love and Peace'')』、『ヘヴン・オン・アース(''Heaven On Earth'')』、『マザー・シップ(''Mother Ship'')』)は、1960年代アヴァンギャルド・ジャズの要素を取り入れたり、ヤングの地元ニューアーク出身のミュージシャンを起用したりするなどしている。その後は草創期のフュージョンを試みたひとりに名を連ねている。すなわち、『ライフタイム/エマジェンシー(''Lifetime/Emergency!'')』に起用されたトニー・ウィリアムズジョン・マクラフリンが、マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』にも参加したのである。『ライフタイム/エマジェンシー』におけるヤングの表現は、非常に打楽器的なアプローチや、シンセサイザーのような効果音とギターの頻繁な重用に明らかである。ジミ・ヘンドリックスとの共作による音源は、ヘンドリックスの死後にアルバム『メッセージ・フロム・ナイン・トゥ・ザ・ユニヴァース』として発表された。
肺炎を放置したため37歳で早世した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラリー・ヤング (ミュージシャン)」の詳細全文を読む




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